2014-02-11

あの日から2年




今回のトルコ滞在最後の日、2月8日は夫の命日だった。もうあの日から2年も経った。夫の墓のある村は、昨年の今頃よりもさらに危険な場所となり、今年も墓を訪れる事も出来ないが、偶然にもこの日にシリアとトルコ国境の町、キリスに行く事になった。



私にとって特別な意味を持つ日に、シリアを国境越しに、垣間見る事が出来る。これも、何かの思し召しのような気がした。



キリスには大規模なシリア人難民キャンプがあり、そこには私の旧友家族も住んでいる。



キリス向かう道は、穏やかな日の光に包まれていた。両側に広がる農地は、冬の雨で蘇った緑に包まれ、所々耕されている部分は、シリアで見慣れた赤っぽい土が顔を除かせている。所々にテル(遺丘)も見えて、シリアにいるような錯覚に襲われる。



しかし、ガジアンテップの町を出て30分くらい行ったところで、コンテナーを連ねた小規模なシリア人難民キャンプの一つが現れ、現実に引き戻された。周りののどかな光景の中で、やはりそれは異様なものだった。



しばらく行くと、キリスの町が見え始めた。キリス病院のところで左に折れ、さらに行くとシリアとの国境まで、延々とトラックが連なりながら停まっている。このトラックにはシリア人難民への物資及び国内向けへの物資が入っている、と運転手氏は言う。このトラックの連なりの向こうに「キリス1」というシリア人難民キャンプがある。



程なくキャンプに着いた。友人家族には連絡が行っていたので、キャンプ外で待っていてくれた。懐かしい笑顔、懐かしい「アハラン・ワ・サハラン(ようこそ)」。暖かな抱擁。



我々は許可がないのでキャンプ内には入れないため、入り口すぐ脇にある、お茶の飲める場所で話をした。



彼らがアレッポを逃れてこのキャンプに来たのは1年前。アレッポであてどなくさまよった後だった。「キャンプに来てから2回くらいアレッポの家に戻って、ちょっとした家財道具を持って来たけど、うちのバルコニーは潰れていたわ。まだ全壊はしてなかったけどね」友人の母親は、淡々と語る。



生活のあれや、これやを話しては、「まだ他の人よりはマシな生活ができている。神様に感謝しているわ。」と彼女は言っていたが、「難民証」に話が及んだ時、今まで冗談を交えながら話をしていた彼女の顔が曇った。

「でもね・・、ここに書いてある一言。これを見る度に、胸が押し潰されそうになるの。」と彼女が指差した「難民証」の一部分には、「祖国を失った者」との記述があった。



祖国を失った?シリアは、このキャンプのすぐ横にある国境のゲートの向こうに広がっている。だけど、そこはすでに祖国ではないのか?



この数日、またアレッポでの樽爆弾の投下が激しくなっており、避難の波が再び大きく押し寄せている。ゲート周辺には家財道具を載せられるだけ載せた車や、持てるだけの荷物を持った人々が、右往左往している。



祖国を失う。なんと重く、鈍い痛みをもたらす言葉なのだ。



キリスに行く事になった時、夫の墓に佇むことはできないにしても、国境からシリアを眺め、暫し想い出に耽りたいと思っていた。しかし、目の前にはもっともっと厳しく、悲しい現実がある。



冬の陽が頼りなさそうに傾き始めた。別れを告げなければいけない。友人の母は、こらえ切れずに泣き始めた。今度会う時はアレッポでね、と言う彼女の後ろのキャンプのゲートが、やけに無機的に見えた。






  このキャンプ(キリス1)には現在、約13000人程が「収容」されている。コンテナー型の2部屋をしつらえたキャンプで、「収容」されている人には、一月一人100トルコリラ(約5000円)分のチケット(85リラが物資との交換用、15リラが現金支給用)が支給されるということである。